宇宙には137億年の歴史があって、地球には46億年の歴史があるのだそうだ。また、人類だけでいえば500万年くらい歴史があるのだそうだが、偶然にも私はこの場所この瞬間のこの人間に生まれ、生きている。
すると、自分以外の他の誰かに生まれてもよかったのではないか、そんな疑問が湧いてもおかしくない。しかし、現実にはそうならなかったのであり、今後も他の誰かに生まれ変わるといったことはありそうもない。
それに、仮に今ある自分と違う誰かに生まれたり、他の誰かに他の生まれ変わることができたとしても、本質的には今と何も変わらないのではないか、そうした直感もある。つまり、他の誰かに変わったとしても結局私は変わらず私であり続けるということだ。
例えば、同じ親を持つ兄弟姉妹の間において私は私の側に生まれたのだが、もし仮に私がいま現に生きているこの人間ではなくて、兄弟姉妹のうちの別の誰かに生まれたとする。そうすると、自分が「誰」であるのかは具体的に変わるけれども、依然として私は変わらず私であり続けるに違いない。
もちろん、生まれ持った性別や身体的特徴、後天的に発現するような才能や能力、それに伴って、その後歩んでいくだろう人生の足取りは自分が「誰」であるかによって変わる。しかし、身なりや容姿を変えたとしても私が私であり続けるように、私が全く違う別の人間になったとしても本質的に私は私であり続ける。
なぜなら、そこで認められうる自己は常に内側から開かれるからだ。
生まれや育ち・人種や種族が全く違う別の誰かに生まれたり、生まれ変わることがあったとしても、結局それが私であるならば、私は変わらず私のままであり続ける。
だから、私が「誰」であるのかということは、自分自身の「存在」という水準においてはさほど重要でないことになる。
要するに、”私を私たらしめている”のは他人から見て”誰”であるとか、どこで生まれた”誰々”というような外側から与えられるものではなくて、まさにそこから現実が開かれているような内的なものなのではないだろうか。
いずれにしても、自分が誰に生まれようとも変わらず残り続ける”それ”とは一体何なのか。なぜそれは生まれ、存在しているのか。そのことが疑問に思える。