生きる意味の不在

自分が”誰”に生まれるのか、それは自分自身の存在にとってはさほど重要でなく、潜在的には可変的であるように思う。その実現可能性をさておけば、きっと誰に生まれてもよかったのだろうし、他の誰かに生まれ変わることだって十分可能だ。

ただ、現実的に見れば、他の誰かに生まれることはなかったのであり、これから他の誰かに変わるといったことは起こりそうもない。また、身なりや容姿を変えたり、コスプレやVtuberなど擬似的なアバターに変身することはできても、実際には与えられたその「誰か」を前提に生活を送らざるを得ない。

だから、差し当たりは与えられた人間を素直に生きねばならないだろう。

何より、いつどこの誰に生まれるのか私は選ぶことができない。人生は一方的に与えられるものであり、一度生まれてしまえばもう後戻りはできない。故にここに運命というものを見出すことはできるかもしれない。(実際、気付かぬうちにその事実を当たり前に受け入れて生きているのでもある。)

ただ、冷静になってみれば、私の側にこの世界で生きていく内的必然性はどこにも見当たらない。自ら望んで生まれてきたわけでも、自らで選んで生まれてきたわけでもない。どこまでいってもあくまでそれは一方的に与えられたものだ。

なぜ生まれ生きねばならないのか、その意味や理由を誰も教えてくれはしない。両親に限らず、自分よりも先に生まれてきた人間含め、誰もそのことについては教えてくれない。

仮に私の創造主がいるとしても、彼がこれまで私に何か教えてくれたことはないし、これからもありそうにない。だから、ただ奇妙な現実が一方的に与えられ、それを生きるよう求められている。

たとえ生まれてきた意味や理由について自分なりに考えてみるとしても、めぼしいものは見つかりそうにない。「それは現にそうなっているから」ということ以上に見出せそうなものは見当たらないからだ。

だから、結局私は私を、つまり、現に与えられているものを生きるしかないのだろう。

人生に意味はあるのかもしれないし、無いのかもしれない。それと同様に、何か理由があるのかもしれないし無いのかもしれない。そうした宙吊りのまま日々は過ぎ去っていく。きっと人生にその意味や理由は不在なのだろう。どこか底の抜けたニヒリズムが顔をのぞかせている。

そうすると、洗濯物の裏表を返すみたいに、与えられた人生をどこかしら自分で捉え返さなければならないのだろう。まるで他人の尻拭いでもするかのように、勝手に巻き込まれた事に自ら責任を負わねばならないというのだから、これまた滑稽である。

しかし、それが生きることの本質で、そもそも生きるということはそういうことなのかもしれない。また、その意味や理由が不在ゆえ、それらが何であるのか考えてしまうところに人としての性を感じずにはいられない。

なぜ生まれなぜ生きているのか。奇妙な問いではあるものの、そうバカにしてもいられないのがこれまた滑稽だなと思う。