何のために生きるのか?

日々暮らしていると、仕事や勉強、家事・育児と生活のあれこれに追われるばかりだ。そんな中それらに何の意味があるのかと問うてみれど、明確な答えは見つかりそうにない。

人生の意味や目的を見出そうとしても、それらは不在であって、どこにもないように思われる。だから、考えれみれば、ひとりでに人生を降りることもできるし、与えられるがまま淡々と生きることもできる。もしくは、何かしらの意味や目的を自ら見出すこともできるだろう。

ここでもし、人生に何かしらの意味や目的を見出そうとするならば、いくつかの態度を取ることができる。一つは「自らがしたいと感じることをして楽しむ」というあり方、もう一つは「自分はこのために生まれてきた」と思えるような強い欲望を見出し、それに従って生きるあり方である。

これらは、自らに生じうる欲望や執着の強さによって変わるもので、欲望が薄ければ欲求に従って前者の態度を、欲望が極めて強ければそれに従って後者の態度を取ることになる。日々の欲求に従いその都度楽しみを見出して生きるか、強い執着があれば夢や目標を設定し、それに人生を捧げるということもあるだろう。

社会的には「夢」や「目標」といった後者の方が評価される傾向にあるが、欲望の度合い応じて前者か後者が決まるため、そこに優劣は無いように思う。

また、もし人生の意味や目的を自らのうちに見出すことが難しければ、自分自身の外に見出すという態度もありうる。例えば、他人や社会の側において、一般的にそれが良いとされる物事に自らの身を捧げるというあり方である。この場合、常に他のものに依存することにはなるけれども、常に何かしらの意味や価値を与えてもらうことができる。

さて、いずれにしても人生における意味や理由は不在のままである。その上でどんな態度でもって生きていくのかは、おそらく各人に委ねられているのではないだろうか。